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■ 2017/12/03 Autumn of the Poplars

Autumn of the Poplars
2008年1月某日、私は人生のどの瞬間よりも強く、
時よ止まれと願っていた。
毎週末恒例の家族ディナーへ車で向かう途中で寄ったガソリンスタンド。
車内には家族4人+祖母。

笑い声が響いていた。
祖母の天然ボケが炸裂し、父がツッコミを入れ、母が被せた。
そして私は思った。
こんな幸せな瞬間を切り取って、額縁に入れて、いつまでも飾っておけたらいいのに。

すでに祖母の足は衰えはじめていて、
本当にゆっくりと、終わりに近づいているのは分かっていた。
響き渡る笑い声の中で私はひとり泣きそうになり、振り払って一緒に笑った。

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祖母は先日、87歳で行ってしまった。

昭和5年、祖母は生まれた。7人兄弟の三女だった。
一家は貧しく、日本が太平洋戦争に突入する頃、疎開の流れに逆流するように奈良から大阪へ丁稚奉公に出た。
裕福な家庭の子守りをしていた。空襲の下、その子供たちを連れて逃げ回っていたという。

その後、戦争の終わりと共に奈良に戻り、
20歳を過ぎたころ、いわゆる「ところてん方式」で祖父と見合いし、結婚する。
結婚資金も応援資金もゼロの二人。派手な生活が好きな祖父を叱りながら、祖母は日夜靴を作った。

29歳のとき、父を帝王切開で出産する。
ちなみに、本人の口からではないが、父の前にも妊娠したことがあったが貧困のため諦めなければならなかった…らしい。

一人っ子だった父は祖父母の愛情を一身に受け、とても素直で真面目な体育会系青年へと成長した。
父が十代のころに国の政策により祖父が某市役所の職員として採用されて以降は少し生活が楽になったらしい。

(このような政策がのちに「逆差別」として批判されることになったと知ったとき、私は心底憤慨した。
市の職員とは聞こえが良いが、高度成長期真っ只中にあって、祖父が手にした職はごみの収集員である。
それまでどんなに望んでも靴職人でしかなかった祖父は、その仕事に大変誇りを持っていた。)

父が就職活動をしていた時は、まだ応募者の身辺調査があり、父の就職先はいつもの職人系か公務員しかなかった。
彼は迷わず高校教師という道を選び、何度目かの採用試験でめでたく合格する。

若手だった父は赴任先で母と出会い、二人は結婚し、私が生まれた。
祖母は私が生まれた瞬間、病院から父の職場に電話し、小指を立てて「女の子や!」と叫んだそうだ。

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私は、祖母のことを「幸せになるべき人だ」と思っていた。

幼いころから貧しく、文字も読めず娯楽も少なく、
祖母は時間があれば仕事ばかりしていた。
生きるということは働くことと同じだと言いながら、
稼いだお金は自分ではなく、すべて息子夫婦と孫に使っていた。

あの夏の家族旅行も、
私の中学・高校の学費も、
毎週日曜日の家族ディナーも、
オーストラリアへの短期留学も、
突然とんでもなく高くなった携帯代も、

ぜんぶ、ぜんぶ祖母が躊躇わず出してくれたお金だった。

でも、私は祖母が本当に幸せだったのかずっと分からないままだった。
今でも、分からないままだ。

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毎週末恒例の家族ディナーの後は、決まってスーパー銭湯に行った。
露天風呂でいろんな話をした。
親にも言えない恋の悩みも、祖母は何も批判せずに聞いてくれた。

そして私も、祖母の若いころの話を聞いた。

祖母には19歳のころ、想いを寄せる人がいたらしい。
なかなか前に進めなかったけど、一度だけ念願かなって映画デートをしたという。
そして祖母は、事情があって結婚できなかったけど、その人のことを今でも愛していると言っていた。

その人は今どうしているの?と聞くと、風の噂で亡くなったと聞いたと言っていた。

祖母がその人と結ばれていたら父や私はここに居なかったかもしれないけど、
いま祖母はその人にまた会えたのだろうか。今度こそ、70年間想い続けた愛を、伝えられていたらいいのにと思う。

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祖母の最後は、病室だった。
大きな病気はなく、廊下により顎と喉の筋肉が動かなくなり、
自力で食事が取れなくなった。
お別れをいうための、しばしの延命治療ののち、すべての栄養を絶たれ、数日後に脱水症状による高熱で生きるエネルギーを燃やし切って亡くなった。

11月23日木曜日、私は祖母と病室で最後のお別れをした。

祖母はもう話せない。薄っすらと片目を開けて、かすかに頷くだけだった。

か細い手を握りしめて、
本当に小さくなった胸に伏せて大声で泣いた。

戦争の中、生き延びてくれて、ありがとう。
生活がとても苦しい中、頑張ってくれてありがとう。
お父さんを育ててくれて、ありがとう。
私にたくさん、愛情を注いでくれて、ありがとう。
おばあちゃんとの時間は本当に大切で、いつまでもいつまでも終わってほしくなかった。

おばあちゃん、大好き。
いつまでも、一緒にいてね。

頷きながら、私の首元を撫でてくれた。
とっても温かい手だった。

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おばあちゃんを見送った日は、大和の国はとても澄んだ青空で、
何千年も色あせない豊かな秋の色彩をまとっていた。

飛鳥の地、大和三山、藤原京。
どの景色を見ても、おばあちゃんと過ごした思い出が浮かんでくる。
私は幼かったり、学生だったり、大人だったりしている。

おばあちゃんはこの景色の中のどこにでもいる、
そして、もう、この景色のどこにも居ない。

でも、おばあちゃんは私とずっと一緒にいると約束してくれた。
だから、私はおばあちゃんを感じることができる。

大和の晩秋の澄んだ空気が、
おばあちゃんのどこまでも綺麗な心と重なって、

私は深く深呼吸をつづけた。
止まらない涙が、祖母の手のように温かかった。




2017/12/03 (SUN)
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Writer: ことね